七言律詩 「合戦川中島」
合戦川中島 角光嘯堂
千曲の川霧犀川の雨 松籟吹き荒ぶ西条山
暁天に雲を呼ぶ川中島 雄心堂堂両雄の戦い
竜虎相搏つ阿吽の策 十年の一剣堅塁の間
三尺の氷刀陣頭に冴え 一髪の流星興亡の剣
【詩 形】 七言律詩
【語 釈】
暁 天 暁の空
雄 心 「大いにやるぞという、張り切った気持」の意の漢語的表現
両雄の戦い この一戦に謙信は上杉家の興亡を賭け車懸かりの戦法で武田軍に迫ると、信玄も鶴翼の戦法で応戦した
竜 虎 竜と虎(りょうこ)互いにまさり劣りが無く、天下を二分する英雄の意にも用いられる
十年の一剣 合戦が始まってから10年後の第四次合戦の大将戦
三尺の氷刀 三尺の小豆長光の太刀
一髪の流星 流星の飛ぶ光のごとく抜いた剣をひらめかせて切り下げた一太刀
興 亡 お家の存続と家運をかけた勝負時【詩の心】
前述の漢詩「題不識庵撃機山図」と全く信州川中島を舞台に読まれた漢詩であり、時期は第四次の合戦中の永禄4年9月9日のことである。
天文22年(1553)、信濃の葛尾城主村上義清、鴨ケ嶽城主高梨政頼、井上城主井上清政、須田城主須田満親、長沼城主島津忠直、善光寺大御堂主里栗田寛明らは、甲斐の武田信玄に領地を奪われ、上杉謙信に助けを求めてきた。
これを受けて謙信は、天文22年から永禄7年(1564)までの12年間に、5次にわたって信濃の川中島に出陣し、信玄と激戦を展開した。
越後の虎謙信・甲斐の竜信玄、両雄の戦いを詠んだものです。【川中島の戦い】
日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。この5回のうち、もっとも激烈をきわめたのが、永禄4年、第四次の川中島の合戦で、謙信三十二歳、信玄四十一歳のときであった。
とはいえ、この合戦の具体的な経過は史料がなく、ほとんど分かっていないというのが現在の状況です。第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。
結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。起句は、しみじみと情景を感じながら詠じ、転句からは武田を討ちそこねた無念をこめて力強く吟じたい。
【川中島へのアクセス】
三重県方面から志賀高原に行く途中、上信越自動車道を「長野IC」を出て県道35号線を長野方面に進むとすぐ千曲川に掛かる松代大橋を過ぎると、
すぐに篠ノ井バイパスの「古戦場入口」交差点に出る。この交差点の手前右手が現在「八幡原史跡公園」になっている八幡社地がある。
この八幡社は、山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡としてこの地に勧請したと伝えている(『甲越信戦録』より)。
ここから、犀川と千曲川との合流地点にある落合橋、屋島橋までの一帯の三角状の平坦地が川中島古戦場である。
内陸の長野市南郊のこの場所は春夏秋冬がはっきりし、秋は紅葉が綺麗でよく川霧が発生するところでもあります。
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