趣味の詩吟

七言絶句 「環館口號」 と萩生徂徠

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    還館口號   萩生徂徠

    甲陽の美酒 綠葡萄

    霜露 三更客袍を濕す

    須く識るべし 良宵 天下に少なるを

    芙蓉峯上 一輪高し

〔詩 形〕  五言絶句

〔出 典〕 「風流使者日記」

【通 釈】

甲斐の旨酒、それは緑うるわしいぶどうから造られる。
その美酒を含みつつ、はや時は三更(夜半)、霜や露がわれわれの衣服を湿らせる。
ご覧あれ。こんな良い夜はこの世にめったにあるものではない。はるか遠く、富士の上には一輪の月が一きわ明るくかかっているではないか。(それでとうとうその夜は遅くまで酒を飲みつつ、月を賞したのである。)

【語 釈】

甲陽―甲斐の国(山梨県)のこと。甲州。「陽」は山の南という意味

三更―真夜中。今の零時。「更」とは一夜を五分した時刻のこと。
    「初更」は午後の八時、「五更」は午前四時になる。

湿――しめる。水気を含むこと。Fujinimangetu_3

客袍―旅人の衣服。「客」は旅人の事。「袍」は綿入、または長い衣服のことをさすが、ここでは韻の都合上つかったまでで、「客衣」と同じこと。

須識―当然知らなくてはいけない。「須」は「当然…すべきだ」という意味をあらわす。

良宵―良い夜。「宵」はよい。よる。

少――マレと読む。めったにない。

芙蓉峰―富士山のこと。富士の八峰を芙蓉の八葉にたとえたことから、このように呼ぶ。

【参 考】

柳沢吉保が甲斐に封ぜられた後、徂徠と田省吾をその地に行かせ視察させた。その時、この詩を作ったという。
題の「口號」はくちずさむ、という意味。題が「甲斐客中」となっている本もある。なお、出典には題はない。

【作 者】

萩生徂徠。寛文6年(1666)~享保13年(1728)。江戸の人。名は双松。字は茂卿。苦学して学を修め、初めは朱子学を講じたが、伊藤仁斎の古学に対抗し、古文辞学を唱えた。
柳沢吉保に仕え、はじめ微禄であったが、次第に重用され五百石を録するに至った。吉保引退後は私塾諼園社を開き名声が上がった.

(本文は、吟詠教本 漢詩編より抜粋した。)

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盛唐期の代表的詩人 【杜甫】

杜甫(712~770)は、

杜甫は、11歳年上の李白とともに唐を代表する詩人であり、中国では「詩聖」として現代においてもあがめられている。
字は子美。襄陽(湖北省)の杜氏の出であるが、生まれたのは鞏県(河南省)であった。
杜甫自身、詩のなかで、杜陵(長安)の杜氏の出であることを口にするが、杜陵の杜氏は本家であり、杜甫の生まれはその分家の襄陽の杜氏である。
杜甫の祖父杜審言(としんげん)は、則天武后の時代の詩人として有名であった。
父の社閑は、地方官で終わった。
このように、杜陵の杜氏はなかなかの名門であるが、分家の襄陽の杜氏からはさしたる政治家は出ていない。
とはいえ、杜甫は、ともかくも官僚人の家に生まれたので、自らも官僚人になることを志し、科挙の試験(官吏採用試験)を何度も受験したが、ついに合格せず、44歳までは職もなく浪人生活を余儀なくされた。

40歳頃からの杜甫は、社会的題材をとりあけて民衆に代わってうたうという社会詩人として名声をあげていった。

44歳のときに、知人の推薦によって右衛率府冑曹参軍事(皇太子の御殿を防衛する軍隊の兵器庫の管理者)に任官した。

任官後間もない45歳の時

安禄山の乱がおこり、杜甫は前年食糧疎開をさせていた家族の住まいを移すために疎開先に行ったが、そこで粛宗(しゅくそう)が霊武で即位(757年)したというニュースを聞いて、単身粛宗の行在所(あんざいしょ)に馳せ参じようとして行く途中で、安禄山側に捕らえられて捕虜にされ、長安の捕虜収容所に送りこまれてしまった。

【有名な「春望」の詩は、757年長安の捕虜時代、作者46歳長安での作】

翌年4月Photo_9

収容所を脱走して、そのときは鳳翔(陝西省)に行在所を移していた粛宗のもとにたどりつき、格別の抜擢で左拾遺という天子側近の諫官にあてられた。
しかし、元来、科挙にも合格していなかった杜甫であったため、社会の秩序が少しづつ回復するとともに、華州司功参軍事という地方官に出されてしまった。47歳(758年)の6月のことである。

この時期の杜甫は、後世の人から「詩史」(詩による現代詩)と称されるほど、安禄山の乱を題材にして、たくさんの詩をうたいつづけた。

48歳の秋

華州司功参軍事として任官中は、杜甫の社会詩の最大傑作とされる「三吏三別」の6作品を作ったが、そのなかで政府のやり方を批判する発言があるということで、華州司功参軍事の官を免ぜられてしまった。

そののち、杜甫は、職を捨て妻子を連れて、放浪の詩人としての長期の旅に出る。

秦州から同谷をへて、48歳の12月に成都(四川省)にたどりつき、翌49歳のとき、成都の浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂をつくり、54歳まで成都に滞在することになる。

この時期が、杜甫にとって最も恵まれた時期

かつての友人の巌武(げんぶ)や、高適(こうせき)が交替に、この地域の高官として着任し、杜甫の生活を見てやったりもした。

53歳のとき

剣南東川節度使の巌武の推挙により節度参謀・工部員外郎となったが、それも永くはつづかず、

翌年54歳の正月には官を辞して浣花草堂(かんかそうどう)にもどった。
そしてこの年の正月に高適が、4月には巌武が相ついで亡くなるとともに、杜甫は成都の生活に見きりをつけて、家族ともども再び旅に出た。

こんどの旅は、長江を利用しての水上の旅であったが、健康をむしばまれつつあった杜甫は、しばしば水上から陸地に上陸して、病気療養にあたらざるをえなかった。

55歳の秋から57歳の正月まで

キ州(四川省)時代に、『秋興』八首の連作をはじめとして、数々の名作を残した。
杜甫の芸術が最も結実したのは、この足かけ3年のキ州時代であった。

57歳の正月

キ州を離れ、また長江を下って洞庭湖に向かい、さらに南下して長沙(湖南省)に向かおうとしたが途中で洪水にあい、あきらめて北上する途中、潭州と岳州(ともに湖南省)のあいだの水上で、家族に見とられつつ59歳の寿命を終えたのであった。

官をやめてからの杜甫は、

社会詩人であることをやめて、詩を芸術作品として高めるために、いろいろと様式のくふうをし、中国詩の可能性の極限に近いところまでの追究を試みた。
杜甫が後世「詩聖」をもってあがめられるのは、実にこの点にある。

杜甫の一生のうち

在官中はすぐれた社会詩人として、また官をやめて放浪の旅に出てからは、すぐれた芸術詩人として、後世の詩人に限りない刺激を与えたのであった。

〔参考文献〕
高木正一『杜甫』1969、中央公論社
鈴木修次「杜甫論」『唐代詩人論』1979、講談社
鈴木修次『杜甫』1980、清水書院  による。

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唐詩と唐代の代表的な詩人たち

世に「漢史、唐詩、宋文、元曲」といわれるように、唐代文学を代表するのが詩であり、また、その詩の中でも、最も秀逸なのが唐詩である。
ここでは、唐詩の形態と代表的な詩人の作風について検証してみよう。

詩人の数、作品の数においても歴代で群を抜き、
宋の計有功撰『唐詩紀事』にあげる詩人は1,150人、
清の康煕帝勅撰『全唐詩』に至っては2,800余人、4万9,000余首をおさめている。
また、詩型も唐詩においてあらゆる形体が出そろい、かつ完成された。

なお、元曲とは、中国の元代に発展した歌劇ともいえる演劇で、元雑劇ともいい、脚本が現今まで伝わる中国の演劇として最古のもので、中国文学史の傑作で口語文学としても最古のものである。

唐詩の形体は、古詩と近体詩に大別される。

◆近体詩は、平仄(ひょうそく)や韻律などの規則のある定型詩で、律詩・絶句がこれである。
律詩の詩型は初唐期の沈佺期・宋之問らにより完成され、又、絶句の詩型の完成も唐代になってからであり、盛唐期の王昌齢・李白は絶句の最高峰である。
唐代に近体詩が完成された背景として、科挙(官吏採用試験=貢挙)で作詩が重視され、厳密な押韻が求められたことがあげられる。これがまた唐詩の声調の優麗さの因ともなっている。

◆古詩は、近体詩のごとき厳格な規則を無視した比較的自由な型式であり、それゆえに社会諷刺や批判精神が吐露されるのは古詩型式が多く、李白・杜甫に始まるものとされる。

文学史の上からは、唐代約300年を4期に分ける事ができる。

【初唐期】 国初から睿宗期までの約100年を初唐といい、王勃・楊烱・盧照鄰・駱賓王を初唐の四傑と称す。

この時期の詩は六朝以来の五言詩を中心とする型式美から完全には脱していないが、陳子昂は詩風を漢魏へかえすことで作詩に新しい生命力を吹き込み、沈佺期・宋之問は律詩の形体を完成させ、その後の唐詩の新しい展開の基礎ができ上がった。
初唐にはほかに杜審言・リキョウ・張説・張九齢らがいる。

【盛唐期】 玄宗・粛宗期の約50年を盛唐といい、 唐の極盛期という時代性が作詩にも見事に反映している。
 初唐における六朝詩の型式美の超克を意図した復古の作詩の試みや近体詩の完成のあとを受け、最もみのり豊かな時期である。

【李白】 自由と情熱に満ちた詩的幻想の世界に生の喜びをうたいあげる浪漫的な李白、詩仙と称せられる。

【杜甫】 現実を直視して誠実・雄渾な気魄をこめて内面的苦悩をも律詩に凝結させた杜甫、全唐時代の頂点として詩聖と称せられる。

【王維】 仏教にも造詣の深かく詩仏とも称せられる王維。

孟浩然】 そして伝統的な自然詩の分野に新境地を開いた孟浩然。

岑参・高適は辺境のエキゾチックな生活や風物をうたい、王昌齢は李白とともに絶句の型式・内容ともの完成者と目せられる。

こうして、唐詩は、盛唐期に事物の描写だけでなく、人間の内面的感情をも見事に表現する作風を生み、その韻律の美しさと相まって、最高の発展段階に達した。

丁度その頃(759年)日本では、大伴家持らによる「万葉集」の編纂ができた時期と重なる。

【中唐期】 代宗から文宗期までの約70年を中唐という。

安史の乱後の厳しい時代相を反映して、盛唐期に比べると詩人の数は多いものの、内容的にはかなり遜色がある。
大暦の十才人と称せられる人たちも出ているが、やはり中唐を代表するのは白居易とゲンシンである。
宋の蘇軾は“元軽白俗”と低い評価を下すが、その平易な表現と身近な対象にもとづく作風により幅広く愛誦された。
この時期、庶民層の台頭により詩歌の受容者層が著しく拡大したことが背景にある。

この時期に属する詩人には、他に
蕭穎士・劉長卿・元結・韋応物・権徳輿・韓愈・王建・劉禹錫・柳宗元・寛島・李賀らをあげることができる。

【晩唐期】 文宗以後唐末までの約80年を晩唐という。

唐の衰退を微妙に感じとった耽美的・デカダンス的な作風に特徴がある。
その代表は李商隠で、自然をかりて自己の心情を記した技巧的な抒情性がきわだっている。オンテイインは愛情の微妙な心理的あやをうたう艶体の詩が多い。
杜牧は前2者の技巧性と繊細華麗さとはやや異なり、情致豪遭と称せられる詩風を特徴とし、なお中唐の平易さの風を継ぐところがある。

 このほか、晩唐期に属する詩人には

許渾・陸亀蒙・羅隠・皮日休・司空図らが有名である。

またこの時期には独特の詩風を展開した禅僧が登場してくる。釈皎然・釈貫休らがその代表である。

 907年に唐が滅亡したが、そのころ平安時代の日本では紀貫之らの手により日本最初の勅撰和歌集となる「古今和歌集」が編纂されていた、905年のことである。

〔参考文献〕
小川環樹『唐詩概説』中国詩人選集、1958、岩波書店
小川環樹編『唐代の詩人--その伝記』1975、大修館書店によった。

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唐の歴史概観③ 【中・晩唐期】

中唐(8世紀半ば〜)

 ……日本では752年奈良東大寺に大仏が開眼し、天平文化が栄え。又、唐の高僧「鑑真」が日本に来たのが754年である。

9年に亘る安史の乱755年から763年)により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。

また、この頃になると中央では宦官(=宦官とは去勢を施された官吏)の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。(……現在の日本の官僚が力をつけて、自民党政権を牛耳っているのと似たところがある様に思える。)

これに対し、中興の祖といわれる憲宗は禁軍(皇帝直轄軍)を強化することで中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。

しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。

孫の18代皇帝文宗は、宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。

晩唐(9世紀半ば〜10世紀初頭)

840年に文宗が崩御した後、弟の武宗は廃仏運動を進めた。

当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、牛僧孺と李徳裕の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。

これは牛李の党争と呼ばれ、この政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される反乱が各地で起きた、又、874年ごろから黄巣の乱が起きる。Photo_28

この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を斉として皇帝となった。

長安(ちょうあん)は中国の古都で、現在の陝西省の省都西安市に相当する。

漢代に長安と命名され、前漢、後周、隋などの首都であり、唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長していた。(写真右は、唐代にできた長安の大雁塔)

しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務ができず、自滅に近い形で長安を去った。

この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後朱全忠と名乗る。

この頃になるとすでに唐朝の支配地域は首都長安の周辺のみとなった。

経済の先進地である河南地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。

907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。

しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。

後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は五代十国の分裂時代に入る。

唐の歴史概観はこれで終了。次回は、盛唐期の詩人達について考察をしてみたいと思います。

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唐の歴史概観② 【盛唐期】

初唐に続く今回は盛唐について触れてみたいと思う。

712年(先天元年)李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。

 ……日本史では、710年元明天皇が長安を習って平城京に都を移した同じ時期に当たる。

Photo_19 翌年、713年完全に権力を掌握した、玄宗皇帝の治世の前半は開元の治といわれ、唐の絶頂期となった。

 この時期、唐の勢威は中央アジアのオアシス都市群にまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権をめぐってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いには敗れた。

 玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃(写真)を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。

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楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方3州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。

 

 都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。

丁度その頃(759年)、日本では最も古い歌集「万葉集」が大伴家持らの手で編纂されている。

唐は名将郭子儀らの活躍やウイグルの援軍によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後、乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。

安史の乱(755年から763年)によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。

この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。

また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「河朔三鎮」)。

Photo_5 各地に小軍事政権(藩鎮)が割拠する状態は、後の五代十国時代まで続き、戦乱の原因となった。(図は、8世紀初頭の唐国)

以降、唐は次第に傾いていくことになる。

次回は、③【中・晩唐期】について触れてみたいと思う。

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唐の歴史概観① 【初唐期】

唐の歴史

詩吟を趣味として唐詩を吟ずるための知識として、少し唐の歴史について触れてみたいと思う。

唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史【初唐、盛唐、中唐、晩唐】についての4期を3回に分けて概観してみたい。

なお、史実及び写真についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、その他の文献及び年表から引用しまとめたものである点お断りしておきたい。

まずは、初唐期(武周期を含む7世紀初め)について触れてみたい。

 ……日本史では、607年に小野妹子が遣隋使として隋に渡り、奈良に法隆寺が建立された飛鳥時代のころ。

Photo_25 7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき総督であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、長安を陥落、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)し、唐を建国した。(写真は初代唐皇帝 李淵  

建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。建国に勲功を立てた李世民は、626年(玄武門の変)で、高祖の長男で皇太子の李建成を殺し第2代の皇帝(太宗)となる。

太宗は外征においては当時の北方の強国突厥をくだしてモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。

また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。

唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后であった武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。

 夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、690年(載初元年)国号を周と改めた(武周)。

Photo_26   中国史上最初で最後の女帝であった武則天(写真下)は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。

こうして武則天に退位させられた息子の中宗が再び帝位につき唐を復活、周は1代15年で滅亡した。

しかし今度は、中宗の皇后韋后が第2の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発したこの政乱は、これを主導した2人の皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。

次回は、②【盛唐期】について述べてみたいと思う。

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五言絶句 「静夜思」と李白

Seiyashiimagi      

    静夜思       李 白

  牀前 月光を看る  疑うらくは是れ 地上の霜かと

  頭を挙げて 山月を望み  頭を低れて 故郷を思う

〔詩形〕 五言絶句
〔脚韻〕 光・霜・鄕(下平声・陽韻)

【語 釈】
牀前=寝台、ベッドの前

【李 白】Photo_16
李白(りはく、701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国盛唐の詩人。
字は太白(たいはく)。飄々とした詩風から「詩仙」と後世の人は呼んでおり、杜甫と並び称される。絶句の表現を大成させた人物でもある。

【詩の心】
    (谷崎潤一郎の『文章読本』の一部を引用しながら詩の心に触れてみたいと思います。)
  この詩「静夜思」にはなにか永遠な美しさがあります。
  ごらんのとおり、述べてある事柄はいたって簡単であり、「自分の寝台の前に、月の光が明るく白くさしこんでいる。  あまりの明るさに白く冴えて霜のように見える。自分は頭を挙げて山上の月影を望み、頭を垂れて遠い故郷のことを思う。」と、いうだけのことにすぎません。 そうしてこれは今から千年以上も前の「静夜の思い」なのであります。
  この詩を、今日のわれわれが読みましても、牀前の月光、霜のような地上の白さ、山の上の高い空にかかった月、その月影の下にうなだれて思いを故郷にはせている人のありさまが、不思議にありありと浮かぶのであります。
  また、現に自分がその青白い月光を浴びつつ郷愁にふけっているかのごとき感慨をもよおし、李白と同じ境涯にひき入れられます。

  併せて、この李白の詩「静夜思」についてもう一つ注意すべきことは、この詩の中には月明に対して遠い故郷をあこがれる気持、一種の哀愁がこもっておりますが、作者は「故郷ヲ思フ」といっているだけで、「寂しい」とも「恋しい」とも「うら悲しい」とも、そういう文字を一つも使っておりません。
  このように、文字の表になんともいっていないところに沈痛な味わいが表現できるわけでして、多少なりとも哀傷的なことばが使ってありましたら、必ずあさはかなものになっていると思います。

静夜思譜面 「090909.pdf」をダウンロード  

   静かに、しんみりと詠じてみたい。 

       
(PJプレイヤーで詠唱をお聴き下さい)


(静夜思指導をお聴き下さい)

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詩吟コンダクター「明智君」と音階について

[相対音階]

  詩吟は、吟じる人の声の高さに合わせた相対的な音階を使用します。
     早速、コンダクター「明智君」から音を出して試してみてください。

  • 表示された「明智君」の電源Pを押してから、マウスで画面上の鍵盤を弾くか、又は、パソコンのキーをたたいて音を出してください。 又、赤い色のボタンで本数が変えられます。

      
 私の場合、詩吟をはじめてから7年になります。
これまでは1本で吟じてきましたが今年12月の奥伝位の審査に向け2本で吟じられるように練習をはじめたところです。
 なお、詩吟コンダクター「明智君」は東京大学詩吟研究会のホームページからリンクをさせて頂きました、ありがとうございました。

漢詩・律詩は2本で、和歌・俳句は1本で練習してみたいと思っています。

[ご参考]
   詩吟の音階は洋音階でいうと、ミ ファ ラ シ ド が基本になっていますが、ピアのなどの鍵盤楽器との関連性は次のようになります。

          Syuoniti_4

詩吟では レ、ソ 抜きで吟じられるのが普通です。
例外的に陰音階では レ を使う場合がありますが、 ソ を使うことは普通はありません。
      

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詩吟の吟じ方~格調高い吟

  津岳風会は、開祖故増田漕岳先生が昭和35年ごろに開かれたと伺っております。
当時は会員も少なく、昭和40年代始めにガリ版刷りで最初に作られた名簿には30名ほどの門下生が載っていたようですが、その中で今も現役で活躍しておられますのは別所顧問だけだと聞きおよんでおります。
 その後、玉置岳聴先生、石河岳峰先生が入会され、さらに高山先生、伊藤先生、澤田先生など現在の役員の先生方が入会され、組織拡大に努力をされ現在では290名前後の津岳風会に育ったようです。

開祖増田先生は、昭和40年に行われた研修のなかで、吟に対する次の「3つの構え」を説かれておられます。
(この部分は、津岳風会だより(平成17年春号)に掲載の別所岳謳先生の記事より抜粋さて頂きました。)

1、心の構え
    詩が作られた時代の背景を通して、詩の意(こころ)を温かく理解し、所謂「詩中の人」となって味わう。

2、気構え
    気力に張りがあり、人の心に訴える迫力があること。
    たとえ風雅、哀調のものであってもこれを欠けば格が落ちる。

3、体の構え
    吟は体で吟ずるものである。
    硬直せず、弛緩せず、安定した自然体であることが緊要である。

 以上、三位一体たるべきことで気品の高い吟となる。

 又、発声の練習についても

・ 基礎をしっかりと築く。
・ 自分の音程のなかで高・中・低音をおこなう。
・ 二句三息で行う。
・ 読み方は正しく、発音明確に、語尾明瞭にする。
・ 鼻声、含み声、蛮声、又ことさらふるわすことは俗媚におちる。

等、常に格調高いものを求めるように示されました。

 

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七言律詩 「本能寺」と頼 山陽

Honnoujiimagi

       本能寺     頼 山陽

  本能寺 溝は幾尺ぞ
             吾れ大事を就すは 今夕に在り

  茭粽 手に在り 茭を併せて食らう
              四簷の梅雨 天 墨のごとし

  老の阪 西に去れば 備中の道
             鞭を揚げて東に指せば 天 猶早し

  吾が敵は 正に本能寺に在り
      
      敵は備中に在り 汝  能く備えよ

  〔詩形〕 七言律詩

【舞台とその時代】
  山陰道の老ノ坂峠は、京都洛内(山城国)と丹波国とを隔てる峠である。
  人々の往来という点から言えば京都の西の玄関口であり、軍事的に言えば最終防衛線である。そうした老ノ坂の地理にふさわしく、この峠にはいくつかの物語や伝説が伝わっており、ひとつは、源頼光の大江山の酒呑童子退治にまつわる伝説である。
  もうひとつ、老ノ坂の名前が物語に登場するのは、天正10年(1852年)明智光秀が織田信長を京都本能寺に滅ぼしたときに軍勢を率いてこの峠を越えた、その劇的な情景のためにである。
  主君信長を討ち変わって自分が天下を取る。毛利を攻めている豊臣秀吉に加勢するために備中へ向かうように命じられて、居城丹波亀山城(現在は亀岡)に戻った光秀は、そのまま西へは向かわず、逆に老ノ坂を越えて京に攻め入る決心をした。「敵は正に本能寺に在り」。謀反は失敗すれば謀反に終わるが、成功すればその罪を問われることはない。信長は今や敵なのである。
  峠は道中に高低を付け、国と国の境をつくる、そこに人が差しかかる時、その後の自らの運命を決定し、歴史を揺り動かす、時間上の境目も通り過ぎるのであろうか。本能寺の変という歴史上の大事件の舞台として老ノ坂が予め用意されていたかのようである。

【七言律詩『本能寺』の心、後半の4句について】Photo_15
 漢詩は定型が決まっているのを楽しむものであるが、ここでは乱暴だが老ノ坂の場面だけを抜き出してみる。それでも峠を駆け下りた軍馬の轟きを想像することができるだろう。

   老阪西去備中道 (老ノ阪西に去れば備中の道)
   揚鞭東指天猶早 (鞭を揚げて東を指せば天猶ほ早し)
   吾敵正在本能寺 (吾が敵は正に本能寺に在り)

 一説によれば京都へ上る理由を「主君信長公に馬揃えを御覧いただくため」と配下の将兵に説明したそうであるが、それよりは「敵は正に本能寺に在り」の台詞が峠道にはふさわしい。
 明智光秀のその後を知る後世の歴史家として頼山陽は、『本能寺』の七言律詩を次のように結んでいる。

   敵在備中汝能備 (敵は備中に在り汝能く備えよ)

 老ノ坂の馬上にある光秀は、もちろん自らの運命をそこまでは予測し得ていない。ただ少なくとも、「従是東山城国」の道標を通り過ぎたとき、引き返すことのできないところまでやって来た我が身を思ったことだろう。

【頼 山陽と本能寺の変】
 明智光秀は天正10年5月29日、備中への出陣に当たり、連歌師に「本能寺の溝の深さは、どれほどあるか」と尋ねた。又連歌の発句で「時は今、雨が下たる五月哉」と読み、信長 襲撃の 決意の程をほのめかした。
 この光秀を皮肉った世に名高い「本能寺の変」をドラマチックに歌い上げたスケールの大きい頼 山陽の傑作の一つである。

本能寺譜面「090911.pdf」をダウンロード 

こうした大きなスケールで、この詩を吟じてみたい。


(PJプレイヤーで詠唱をお楽しみください)

(本能寺練習)

(和歌練習)

 

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七言絶句 「九月十日」と藤原道眞

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         九月十日   菅原道眞                          

     去年の今夜  清涼に待す
   秋思の詩篇  獨り斷腸
   恩賜の御衣  今此こに在り
   捧持して毎日  餘香を拝す

 【詩  形】 七言絶句

  【韻 脚】   涼・腸・香   平水韻(下平七陽)

 【作 者】 菅原道眞

平安初期の公卿。学者。承和12年(845年)~ 延喜3年(903年)。
本名は三。幼名阿呼。菅公と称された。若年で詩歌を作り始め、神童の誉れ高く、やがて文章博士にまでなる。
宇田・醍醐の両朝に仕え昌泰2年に右大臣になったが、延喜元年(901年)、藤原時平の中傷により大宰権帥に左遷され、その地で亡くなる。
後に、学問の神「天満天神」として崇められる。遣唐使の廃止や、国風文化の振興に努める。この詩作の後、二年後に世を去る。

  【語 釈】

九月十日   9月9日の重陽の節句の翌日、当時宮中では重陽後朝の宴が催された。
清  涼    清涼殿、天使のいつも居られる宮殿
秋思詩篇  「秋思」という勅題で作った詩、この作品は、去年の九月十日と今日の九月十日とを比べ、その違いの大きさを詠っている
独       作者 ; 菅原道眞を指す、ここでは自分ひとりで昨年に比べて非常に寂しい気持ちを表している
断  腸   非常に悲しい、はらわたがちぎれるほどに切なく悲しい
恩  賜   帝から頂いたもの
捧  持   捧げ持つ
余  香   残っている香り

  【詩の心】

  去年の今夜、去年の九月十日の重陽後朝の宴では、清涼殿で、帝のお側近くにはべっていた。 その宮中の宴では、「秋思」という詩題で、歌を詠み帝に褒められ、その上褒美として「恩賜の御衣」を賜ったが、それから一年経った後の今日9月10日は遠く九州の大宰府に流布され、腸がちぎれるほどの非常な悲しみになって、去年の都での宴を思い起こしている。

 起句では、昨年の京都の部分の描写であり、転句の3句目からは、一年後の太宰府での情景となり、気持ちが切り替わっている。

  「秋思詩篇」は、京都時代のことであるが、太宰府で回想しているわけである。
  「獨斷腸」は、間違いなく現在の感情であり、
  「恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香」は、今年の9月10日、太宰府での遥かに京都をしのんだ気持ちである。 詩作の褒美として、帝から賜ったお召し物は、今でも、ここにあって、京都から遠い大宰府に流布されて、いる情況にあっても旧恩を忘れていないということ。そして、毎日、残り香をかぎながら、帝の恩恵を思い起こしている。

  「餘香」は、後に残った香。うつり香。残り香。具体的には衣類に香を焚きしめた残り香を指す、それと併せて、恵みの名残の意で、余芳、余薫、余馨の意がある。
 ここでは、双方の意がある。

九月十日譜面「090910.pdf」をダウンロード   

結句に現れている、道眞の忠誠心を心から吟じてみたい


(PJプレイヤーで詠唱をお楽しみ下さい)

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七言律詩 「合戦川中島」

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     合戦川中島            角光嘯堂

 千曲の川霧犀川の雨    松籟吹き荒ぶ西条山
 暁天に雲を呼ぶ川中島 雄心堂堂両雄の戦い
 竜虎相搏つ阿吽の策   十年の一剣堅塁の間
 三尺の氷刀陣頭に冴え 一髪の流星興亡の剣

 【詩 形】 七言律詩

【語 釈】
 暁 天    暁の空
 雄 心    「大いにやるぞという、張り切った気持」の意の漢語的表現
 両雄の戦い  この一戦に謙信は上杉家の興亡を賭け車懸かりの戦法で武田軍に迫ると、信玄も鶴翼の戦法で応戦した
 竜 虎    竜と虎(りょうこ)互いにまさり劣りが無く、天下を二分する英雄の意にも用いられる
 十年の一剣  合戦が始まってから10年後の第四次合戦の大将戦
 三尺の氷刀  三尺の小豆長光の太刀
 一髪の流星  流星の飛ぶ光のごとく抜いた剣をひらめかせて切り下げた一太刀
 興 亡    お家の存続と家運をかけた勝負時

【詩の心】
  前述の漢詩「題不識庵撃機山図」と全く信州川中島を舞台に読まれた漢詩であり、時期は第四次の合戦中の永禄4年9月9日のことである。
   天文22年(1553)、信濃の葛尾城主村上義清、鴨ケ嶽城主高梨政頼、井上城主井上清政、須田城主須田満親、長沼城主島津忠直、善光寺大御堂主里栗田寛明らは、甲斐の武田信玄に領地を奪われ、上杉謙信に助けを求めてきた。
  これを受けて謙信は、天文22年から永禄7年(1564)までの12年間に、5次にわたって信濃の川中島に出陣し、信玄と激戦を展開した。
越後の虎謙信・甲斐の竜信玄、両雄の戦いを詠んだものです。

【川中島の戦い】
  日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。この5回のうち、もっとも激烈をきわめたのが、永禄4年、第四次の川中島の合戦で、謙信三十二歳、信玄四十一歳のときであった。
  とはいえ、この合戦の具体的な経過は史料がなく、ほとんど分かっていないというのが現在の状況です。

第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)

  戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。
結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。

起句は、しみじみと情景を感じながら詠じ、転句からは武田を討ちそこねた無念をこめて力強く吟じたい。

【川中島へのアクセス】
  三重県方面から志賀高原に行く途中、上信越自動車道を「長野IC」を出て県道35号線を長野方面に進むとすぐ千曲川に掛かる松代大橋を過ぎると、
すぐに篠ノ井バイパスの「古戦場入口」交差点に出る。この交差点の手前右手が現在「八幡原史跡公園」になっている八幡社地がある。
  この八幡社は、山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡としてこの地に勧請したと伝えている(『甲越信戦録』より)。
ここから、犀川と千曲川との合流地点にある落合橋、屋島橋までの一帯の三角状の平坦地が川中島古戦場である。
  内陸の長野市南郊のこの場所は春夏秋冬がはっきりし、秋は紅葉が綺麗でよく川霧が発生するところでもあります。

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七言絶句 「題不識庵撃機山図」

Photo

   

   

      不識庵撃機山図   賴 山陽
 
   鞭聲肅肅夜河を過る
   暁に見る千兵の大牙を擁するを
   遺恨なり十年一劍を磨き
   流星光底長蛇を逸す


 【詩 形】 七言絶句
 【押 韻】 下平声・歌韻(河) 、麻韻(牙・蛇)


【詩の心】

 上杉謙信の軍は馬にあてる鞭の音もたてないように静かに夜に乗じて川を渡った。武田方は、明け方川霧の晴れ間から上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て驚いた。
 しかし、まことに残念なことには、この十年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃がキラツと光る一瞬の差で強敵信玄を打ちもらしてしまったことだ。
不識庵は上杉謙信、機山は武田信玄である。

 『「ベンセイシュクシュク」は、詩吟の定番であり、真髄でもある。詩吟を知らない人でも、また日本人の多くの人がこの漢詩だけは聞き覚えがあり知っていると思う。日本漢詩紀行(渡部英喜著)の中の中部の「うた」の一つでもある』と、詩吟の恩師である伊藤岳寶先生も会誌の巻頭言の中で述べられてましたように、これは頼山陽のあまりにも有名な漢詩『題不識庵撃機山図』である。
 平成21年のNHK大河ドラマ「天地人」が、上杉謙信に仕え、薫陶を受けた武将、直江兼続を主人公にして謙信の居城である春日山城を舞台に放映されているが、時代はこの川中島の合戦より10年程後遅れた、武田信玄亡き後のことである。

【語 釈】
 鞭 聲    馬に当てるむちの音
 肅 肅    静かなさま
 千 兵    多数の兵
 大 牙    将軍のたてる大旗
 遺 恨    残念、無念
 流星光底  流星の飛ぶ光のごとく剣を抜きて切り下げた時の剣のひらめく 一瞬
         「低」 は、剣のひらめきを流れ星にたとえた語
 長 蛇    目指す大敵、ここでは信玄を指す

【川中島へのアクセス】
 三重県方面から志賀高原に行く途中、上信越自動車道を「長野IC」を出て県道35号線を長野方面に進むとすぐ千曲川に掛かる松代大橋を過ぎると、すぐに篠ノ井バイパスの「古戦場入口」交差点に出る。この交差点の手前右手が現在「八幡原史跡公園」になっている八幡社地がある。 この八幡社は、山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡としてこの地に勧請したと伝えている(『甲越信戦録』より)。
 ここから、犀川と千曲川との合流地点にある落合橋、屋島橋までの一帯の三角状の平坦地が川中島古戦場である。 内陸の長野市南郊のこの場所は春夏秋冬がはっきりし、秋は紅葉が綺麗でよく川霧が発生するところでもある。

【川中島の戦い】Photo_3
 日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。
 主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶが、実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第四次合戦、永禄4年9月9日~10日(1561年10月17日から18日)を指すことが多い。(これには他にも異説がある)

第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)

 戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。

起句は、上杉軍の大軍が夜霧につつまれて川を渡る情景をイメージしながら静かに詠じ、転句からは武田を取り逃がした無念をこめて力強く吟じたい。

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漢詩の形式、古体詩と近体詩

漢詩は古体詩と近体詩に大分される。

古体詩は唐以前に作られた漢詩の全てと唐以後に作られた古い形式の漢詩を言う。古体詩には明確な定型がなく句法や平仄、韻律は自由である。

他方、近体詩は唐以後に定められた新しいスタイルに則って詠まれた漢詩で、句法や平仄、韻律に厳格なルールが存在する。
句数・1句の字数から五言絶句、六言絶句、七言絶句、五言律詩、七言律詩、五言排律、七言排律に分類される。

近体詩の規則

日本においては、五・七・五の韻律による俳句や、五・七・五・七・七の韻律による短歌からの連想か、例えば、七言絶句であれば、漢字を七・七・七・七の形式に並べれば漢詩になると誤解されることがある。しかし、近体詩における字数・句数の形式は、むしろ俳句・短歌における、それぞれ全体で17字、31字という形式に相当するものであって、以下に示す規則による平仄や押韻の韻律こそが、近体詩を近体詩たらしめている本質的な要素である。

平仄(ひょうそく)
  すべての漢字(国字を除く)は、平声(平と略し、○で示す)又は仄声(仄と略し、●で示す)の何れか(場合によっては両方)に属する(詳細は平仄を参照すること)。

六朝時代から隋唐期にかけて、美しく響く平仄の組み合わせとして、次のような規則が確立した。

二四不同二六対
各句において、2字目と4字目の平仄は異なり、2字目と6字目の平仄は同じでなければならない。
正格としては、どちらも平からなる2字の語(○○)と、どちらも仄からなる2字の語(●●)を交互に用いることとなる。(◎は押韻字を示す、以下同じ)。
五言句の例
  ●●|●○◎
  ●●|○○●
  ○○|●●◎
  ○○|○●●
七言句の例
  ○○|●●|●○◎
  ○○|●●|○○●
  ●●|○○|●●◎
  ●●|○○|○●●
このような平仄の制約を満たした句を律句という。

平水韻(へいすいいん、ひょうすいいん)は、 近体詩の押韻に使われる106韻。

一般に詩韻(しいん)と呼ばれるものはこの平水韻を指す。『切韻』系の韻書を整理したもので、中古音の音韻体系を表している。上平声15韻、下平声15韻、上声29韻、去声30韻、入声17韻の計106韻。

平水韻は、近体詩の押韻の根拠として現在に至るまで用いられた。清代の『佩文韻府』にも平水韻が使われている。
なお平声の字が多いため、平声は上下2巻に分けられ、それぞれ上平声、下平声と呼ばれる。

     平声     上声     去声     入声 
   上平声
     東     董     送      屋
     冬     腫     宋      沃
     江     講     絳      覺
     支     紙     寘   
     微     尾     未   
     魚     語     御   
     虞     麌     遇   
     齊     薺     霽   
                   泰   
     佳     蟹     卦   
     灰     賄     隊   
     眞     軫     震      質
     文     吻     問      物
     元     阮     願      月
     寒     旱     翰      曷
     刪     潸     諫      黠
  下平声      
     先     銑     霰      屑
     蕭     篠     嘯   
     肴     巧     效   
     豪     皓     號   
     歌     哿     箇   
     麻     馬     禡   
     陽     養     漾      藥
     庚     梗     敬      陌
     青     迥     徑      錫  
     蒸                    職
     尤     有     宥   
     侵     寢     沁      緝
     覃     感     勘      合
     鹽    儉(琰)   艶      葉
     咸     豏     陷      洽

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詩吟の吟じ方~発声について

  詩吟(しぎん)は、日本の伝統芸能の一つであり、漢詩や和歌などを独特の節回し(節調)で吟ずる。

いわゆる歌のように、詩文をリズム、メロディに乗せて歌うのではなく、詩文の素読(朗読)を基本とし、素読の後に特有のメロディ(節調という)を加えることで、より効果的に詩情を表現する。

具体的には、「はーるーこーおーじょーおーのー、はーなーのーえーんー」と歌うのではなく、「はるゥーー(節調)こーじょーのォーー(節調)、はなのォーー(節調)えんンーー(節調)」というように、語尾の母音を長く引き、そこで節調を行うことになる。

  詩吟が、その吟詠(吟ずること)の対象とするのは、その歴史的経緯から主として漢詩であるが、和歌や俳句、新体詩を吟ずることも少なくない。
  昨今、詩吟は手軽にできる趣味として大きな広がりを見せている、 詩吟をやるということについて私なりに少し考えてみたい。

  詩吟をやる目的とは、「声を出す+心技体+品を高める」に尽きる。

これは、 
 ◆ 自分の思いを遠くに伝えたい……声に託して送り出すことになる。
 ◆ 相手(作詞者)の気持ちを推し量る……ということになる。

そのためには、声を出す……お腹の底から声を出す……声を鍛える事になる
          ①声の濁りをなくす……(母音の「O」「U」に注意する)……品が良くなる
          ②芯のある声を出す……力強さ……腹(丹田)を締める発声をする

発声は丹田から発して、明るく素直で、遠くに響く声がよい。               

母音を整える……「A」、「I」、「U」、「E」、「O」、「N」……口の形を整える
          ①言葉(子音)を言い切ってから余韻(母音)を引くように
          ②言葉は詰めて、間延びしない
          ③感情を出す……我流でやれば品が落ちる

実際に詩吟を始めてみると、

詩吟は、「その基本(発声練習と吟じ方)を教わったあとは、詩の心(作詩者の意図)をよく味わいながら自分で実践することである。」ということがよくわかる。

次号からは、お気に入りの吟を個々に取り上げて「その詩の心」と「作詩者の意図」に触れてみたいと思う。

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